神の定義

徳永進というターミナルケア
力を入れている医者がいまして、
色々な本を書いています。
この人は、故寺元松野さんとも
一緒に勉強会をしたりした方の
ようなんです。


そのせいかどうか知りませんが、
彼はターミナルケアにかかわる人は
クリスチャンが多いってイメージが
あるのかもしれません。


っていうか、少なくとも、
今から20年近く前に書いた本の中では
そういうイメージだったようです。


「話ことばの看護論」
という本の中で、彼は

「ノンクリスチャン」として
末期医療を成し遂げたい


って書いていたりするので、
もしかしたら、当時ターミナルケア
なんてものをやっていたのは
キリスト教系の病院だけだったのかも
知れません。


その徳永氏が本の中で


「神様って何なのか分からない。
 神様の定義って何だ?」


って思ったという話があるんです。
改めて「定義」なんていわれると
クリスチャンの私も


「はて?なんだろう?」


って思ったりします。
でも、彼はその答えを
渡辺和子さんの言葉に見つけるんです。


渡辺和子さんは二・二六事件の時に
部下たちに殺された渡辺錠太郎氏の娘なんですね。
青年将校たちが家に入ってくるんですが、
父親は彼女を机の後ろの隠して、その前に立つんです。
そして、彼女の目の前で、撃たれて死ぬんです。


彼女はこのときのことを引き合いにだして


「自分はとてもちいさかったから、お父さんを
 愛するということは、出来ていないはずです。
 にもかかわらず、父は私を愛して、
 命を捨てて自分を救ってくれたんです」というんです。


そして、


「愛されていないのに、愛することが出来る、それが神だ」


と後に思うようになった、というんです。


徳永さんは、この


「愛されていないのに、愛することが出来るのが神である」


という定義がとっても分かりやすく納得が出来るもの
だったそうです。
で、徳永さんは、神様って実はそこかしこに転がっている
ものなんじゃないだろうかって思うようになるんですよ。
患者さんはこういう神様を求めていて
医療者は、それになれる可能性があるんじゃないかなぁって
言うんです。


「今日は神ではなかったけど、
 もしかして明日は誰かの神になれるかも知れない」


そう思いながら毎日頑張っているのかも知れない
って思うそうです。


まぁ、神になるなんて、大それてますけど
こういう思いってたぶん大切なんだろうなぁって
思います。