そうだったのか・・・

3月の、在宅の実習中から
どうも気分が晴れない日が続き
春休みになっても、どうも
気持ちが沈む・・・。


在宅のメンバーが悪かったとか
今まで、頑張りすぎたとか、
養育費が滞りそうだとか、
諸々ストレスで気が落ちてるのかなぁ
とか、色々考えてました。


普段なら、ちょっと愚痴愚痴言うのを
聞いてもらえればスッキリするのに、
今回は、なんかスッキリしないんですよ。


何を言っても気持ちが晴れない・・・。
うーん・・・・・って思っていたんですよね。


で、今日、教会で聖書研究会があったので、
ちょっと顔を出したんです。
今日の聖書の箇所は


詩篇128だったんですよ。(下記URLにあります)


http://bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi


この時代の背景とか諸々の話をして、
最後のまとめとして、

(以下牧師の文書引用)


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古代イスラエルでは、神様の祝福は、具体的な
繁栄や報酬として現れていた。つまり、モノに
恵まれている事が祝福であった。
「幸福」と「祝福」という言葉が、ほとんど
同じ意味で使われていた。
いわば、古代イスラエル人は、このように、
この世の幸福の裏に、神様の行為を見ていたのである。


しかし、逆の言い方をすれば、
どんなにモノに恵まれていても、
それが神様の祝福でなければ、
本当の幸福とはいえないということである。
このことも、古代イスラエルの人々は、
知っていたのではないだろうか。
労働した報酬がすべて、自分のものになり、
家族はそれぞれに充実していても、
何の感謝もないのでは、いつも、
苦悩や焦慮に駆られなければならない。


反対にいえば、神様を真の意味で畏れる者は、
この世の物質的な恵みが、本来は神様から
頂いたものであるということを十分に
知っているはずである。


そこに感謝があり、喜びがあるのであって、
そのことをこの詩篇は教えているのではないだろうか。
そうだとすると、まさに、ここには、
「知恵」があり、現代でも生きる教訓がある。


いかなる豊かさも、繁栄も、「恵み」
つまり神様からのめぐみである。
そのことを「主を畏れる人」は
知っているがゆえに、その豊かさ、
繁栄が、ほんとうの意味での祝福になるのである。



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というのがあったんですね。
このまとめを聞きながら、
実習をクリアして、
いい成績で進級して、
とりあえず、生活が成り立っている
けど、そこに


感謝


がなかったなと・・・・。



だから、私はこんなにも不安で、
どうしようかと焦り、
これからの生活がどうなるかとか
心配ばかりしていたんですね・・・・。



「今」の状態は神様に頂いたもので、
今日の水も、電気も、私の命も
偶然にあるのではなくて、
やっぱり神様がここに置いたんですよね・・・。




マタイの6章25〜34節

http://www.bible.or.jp/i2/vers_search_i.cgi?cmd=search&trans=ni&book=mat.new&chapter=6&vers=25&back_url=


を思い出しましたよ。



考えてみると私に必要なモノを、
神様が与えてくれなかったことはない
のですよ・・・・・。


でも、ここんとこの私は神様を忘れていたんです。
自分で、なんとかしなくてはという思いばかりが
先にたっていたんですよね・・・・。



自分で何とかしようという思いばかりが強くなると
人生ってつらくなるんですよね・・・・



って、こう書いていながら、
また、この思いを忘れて
辛くなる日が来るんですよ・・・。
感謝を忘れるし、神様を忘れるんですよ。


けれども、どんなに私が神様を忘れても、
神様は私を忘れないようで、
すんでの所で、右手で支えられるようです。



**********イザヤ41章9節**************


わたしはあなたを固くとらえ
地の果て、その隅々から呼び出して言った。
あなたはわたしの僕
わたしはあなたを選び、決して見捨てない。


恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。
たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右の手であなたを支える。


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